テモテ第二1章

1:1 神のみこころにより、またキリスト・イエスにあるいのちの約束にしたがって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、

 パウロは、使徒としてこの手紙を送りました。テモテへの個人的な励ましの内容を含んでいますが、使徒としての手紙です。彼が召された目的を明確に示すことで、同労のテモテが神の御心に沿って堅く立つためです。次の世代が堅く立つために、励ます必要がありました。神の目的については、九節に示されています。

 彼が選ばれたことは、神の御心によります。パウロ自身によらず、また、置かれた環境にもよらないです。神の御心によるのです。神がその目的を果たすために選ばれたのです。ですから、私たちは、自分の都合でこれを変更することはできないことを示しています。テモテを堅く立たせるためにこのように言っています。パウロが神に選ばれた使徒であることは、テモテもよく承知していることです。しかし、そのことを明確に覚えさせました。

 彼がキリスト・イエスの使徒となりましたが、その目的については、「命の約束」のためです。このことについては、十節に示されています。

1:2 愛する子テモテへ。父なる神と、私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。

 彼は、テモテを子のように愛しました。それは、愛情と厳かさをもって教えたことを表しています。愛する子として諭しているのです。

ピリピ

2:22 しかし、テモテが適任であることは、あなたがたが知っています。子が父に仕えるように、テモテは私とともに福音のために奉仕してきました。

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 →「しかし、テモテが証明された者であることは、あなたが知っています。父と子のように、私とともに福音に仕えたのです。」父としてのパウロと子としてのテモテが揃って福音に仕えたのです。この文では、テモテが仕えたのは、パウロではなく、福音です。

 「恵み」は、キリストが備えた良いものです。信仰によって獲得できます。この恵みは、次の「あわれみ」すなわち「契約に対する忠誠」と関連づけられていて、主が契約を果たしてくださることで獲得できる祝福のことです。

 「あわれみ」は、契約に対する忠誠を表します。彼が、御心の内を歩むことで獲得できるものです。主は、契約を徹底的に果たされる方ですが、契約は双方に責任が伴います。その契約が果たされるためには、テモテが信仰により歩むことが必要です。そのようにして、その祝福を満額で受け取れるように願ったのです。そのことは、次の「平安」と訳されている「損なわれることのない完全さ」の上に実現します。一切肉によらず御霊によって歩むことを期待し願ったのです。

 「平安」は、損なわれることのない完全さが原意です。福音の目的が、命ですが、それは、御国において報いを受けることです。その報いを受けるためには、肉にはよらない完全さが求められます。そのことは、御霊によって実現します。

 このように、挨拶の一つひとつの言葉は関連しています。単なる決まり文句ではありません。

1:3 私は夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こし、先祖がしてきたように、私もきよい良心をもって仕えている神に感謝しています。

1:4 私はあなたの涙を覚えているので、あなたに会って喜びに満たされたいと切望しています。

 テモテの涙をパウロは見てきました。それは、パウロがそうであるように、清い良心によるのであり、偽りのない信仰によるものです。パウロは、そのことを神に感謝しました。パウロ自身の模範が示されています。それと同じように清い心で神に仕えていることを覚えて、感謝したのです。

 この涙は、定冠詞がついた複数形です。テモテが流した涙の全体を意味します。一度や二度のある時のことだけでなく、最初から最後まで全部です。ですからその涙の原因は、一つです。別の理由で涙を流したとすれば、このように一括りで扱うことはできないのです。ですから、その涙は、彼が自分のことに目を向けて流す涙ではないのです。彼は、自分自身のことを考えない人です。

ピリピ

2:20 テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、だれもいません。

2:21 みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めてはいません。

2:22 しかし、テモテが適任であることは、あなたがたが知っています。子が父に仕えるように、テモテは私とともに福音のために奉仕してきました。

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 彼の良心は、清いのであり、神の教えと整合していました。そして、偽りのない信仰を持ち、神の言葉をそのまま受け入れ、従っていたのです。そのような信仰の歩みの中で流す涙なのです。福音を聞きながら滅んでいく人のために悲しみ、信仰を持った人々が教えに背くことに心を痛めたのです。信仰による人であるならば、神の人と言われる人であるならば、自分の置かれた境遇について涙を流すことはありません。全ては神が与えたものであることを知っているからです。

 もし、テモテが自分の境遇を悲しんでいたとすれば、パウロが彼に会った時、喜びに満たされることがあるでしょうか。テモテが本当に幸いな信仰を保っているからこそ、喜びに満たされるのです。涙を流していたとしても、それは、聖い涙です。次節までは、テモテの良い面について取り上げているのです。それを受けて、六節から勧めになっています。

1:5 私はあなたのうちにある、偽りのない信仰を思い起こしています。その信仰は、最初あなたの祖母ロイスと母ユニケのうちに宿ったもので、それがあなたのうちにも宿っていると私は確信しています。

 さらに彼の信仰について、偽りのない信仰を思い起こしていました。彼の祖母も、母もそうでした。父は、ギリシア人です。

1:6 そういうわけで、私はあなたに思い起こしてほしいのです。私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。

 このように、神様の召しの目的と、テモテの霊的に良い点を取り上げ、その信仰にふさわしく、与えられている賜物を再び燃え立たせるように勧めました。この賜物は、奇跡によるものです。

テモテ第一

4:14 長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある賜物を軽んじてはいけません。

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 その賜物は、預言によって与えられました。神様が予め示して、これが神からの賜物であることを明示されたのです。神から与えられた能力なのですから、神のために使わなければならないのです。

 今日、私たちは、このような賜物の与えられ方をすることはありません。能力のある人が現れたとしても、それが聖霊の賜物であるということはできません。明確な証拠がないからです。

 しかし、私たちは、神様の働きと目的を知っています。聖書の言葉に対する正しい知識と、それを正しく伝える能力があるならば、御言葉を伝えるのです。未信者に対しても信者に対しても伝えるのです。

1:7 神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました。

 この文は、要点を端的に語るために、特殊な言い方がされています。神が霊を与えたと表現されていますが、そのようなことはなく、途中が省略されています。神は、御言葉によって私たちに御心を示されるのです。それを受け入れて従うのは、霊の働きです。それで、人は、その御言葉に適った人に変えられるのです。霊は、教えを受けた人のことを表しているのです。ですから、神様は、臆病な者になるような教えはしなかったということです。その様になるようには、教えなかったのです。

 神は、私たちを力と、愛と、慎みすなわち自制を持った者に変えられるのです。いずれも神からのものです。御霊によって実現することです。

1:8 ですからあなたは、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。

 主の囚人であるのは、福音の証しのためです。この福音は、いわゆる未信者に対して語られるものだけでなく、信者に対する教えの全てを含む神の言葉そのものです。その福音を証しすることで投獄されたとしても、それを恥としないのです。それができるのは、神の力によります。それは、聖霊による歩みなのです。

1:9 神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自分の計画と恵みによるものでした。

 私たちの行いではなく、神ご自身の目的と永遠の昔にキリストに於いて与えた恵みによります。そのような神の働きが「恵み」なのです。神が備えている祝福なのです。信仰によってそれを信じ、その中に生きる人がそれを獲得します。

1:10 今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされました。キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されたのです。

 その恵みは、イエス・キリストの現れによって、明らかにされました。具体的には、「死を滅ぼされた」のです。これは、肉体の死をなくしたということではないことは明らかです。すべての人は死ぬのです。では、地獄に落ちないようになったということでしょうか。信じない者は、地獄に落ちるのです。これは、信者に関して言っています。信者がいのちを永遠の報いとして受けることを言っています。肉によって歩むことによってもたらされる死を滅ぼしたのです。肉に対して死に、御霊によって歩むようにしてくださいました。

 その救いを恵みとして示されたのです。信仰によってそれを獲得できます。

1:11 この福音のために、私は宣教者、使徒、また教師として任命されました。

 福音は、いわゆる未信者のための福音だけではありません。宣教者は、公に重要な知らせを宣言する者の意味です。これは、未信者に語ることも含みます。使徒は、その教えの啓示を受けた者です。教師は、その教えを教える者です。対象は、信者です。

1:12 そのために、私はこのような苦しみにあっています。しかし、それを恥とは思っていません。なぜなら、私は自分が信じてきた方をよく知っており、また、その方は私がお任せしたものを、かの日まで守ることがおできになると確信しているからです。

 苦しみを恥と思わないのは、自分が信じてきた方をよく知っているからです。その方は、信仰に応え、事をなしてくださる方です。彼は、自分の信仰の歩みの中で、その方をよく知りました。信頼して裏切られることはないのです。

ローマ

10:11 聖書はこう言っています。「この方に信頼する者は、だれも失望させられることがない。」

10:12 ユダヤ人とギリシア人の区別はありません。同じ主がすべての人の主であり、ご自分を呼び求めるすべての人に豊かに恵みをお与えになるからです。

10:13 「主の御名を呼び求める者はみな救われる」のです。

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 もう一つは、私の委託物をかの日まで守ることができるからです。委託物は、報いのことです。この世のものでないことは明らかです。かの日まで残るものです。そして、自分のものと言えるものは、私たちに対する報いです。

 「守ることができる」と言い表したのは、彼が躓くことなく、信仰を全うすることで、その報いが失われることがないということです。

 これは、私たちが受けた委託物を守ることと対比されているのです。私たちに委ねられた委託物は、福音を伝えることです。これは、四章でわかるように、福音は、神の言葉の全てを指しています。その働きのために苦しみを受けたとしても、その働きに対する報いは、決して失われることがないことを示しています。ですから、恥と思わないのです。

・「私のお任せしたもの」→私の委託物。

1:13 あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛のうちに、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。

「あなたは、健全な言葉の手本を保ちなさい。」「保つ」は、動詞、命令形です。対格は、「手本」です。ですから、手本を保ちなさいとなります。健全な言葉は、属格で、手本を修飾しています。すなわち、健全な言葉の手本を保ちなさいとなります。

 「言葉を手本とする」という場合には、言葉そのものを手本にする事を意味します。例として、彼が言葉を述べ伝える時、彼が語る言葉の内容についてパウロから聞いたことを手本にするというようなことです。しかし、ここでは、手本を保つのであり、テモテ自身が手本になりなさいということです。その手本は、健全な言葉に歩むことで示される手本です。教えの内容が健全であれば良いということではないのです。

 テモテには、パウロから聞いた健全な言葉により、その言葉に適った手本を維持するように命じました。言葉を実践して見せることを保つのです。

1:14 自分に委ねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって守りなさい。

 パウロについて語られているように、御言葉を宣べ伝えることが魅力的な良いことなのです。このことは、四章にも、「御言葉を宣べ伝えなさい。」と命じられています。また、その言葉のうちを歩むことが魅力的な良いことなのです。それが魅力的であるのは、大きな報いをもたらすからです。

 それを守ることができるのは、内に宿る聖霊によります。私たちの力ではなく、私たちのうちに住まわれる聖霊が事をなしてくださるのです。すなわち、御言葉を述べ伝えるという彼の使命を果たすことであり、御言葉のうちを歩むことができるようにしてくださるのです。

 次節以降には、その両面について、示しています。

・「良いもの」→魅力的な良いもの。良いものと言っても、理念として良いものだが味気ないようなものではない。苦しみを伴うのであれば、良いと言われても実感が伴わない事があるが、ここで言う「良い」は、魅力的な愛すべき良いものという意味です。

1:15 あなたが知っているとおり、アジアにいる人たちはみな、私から離れて行きました。その中にはフィゲロとヘルモゲネがいます。

 このことは、前節と対比されています。パウロから離れた信者たちがいたのです。そのような人たちと同じようにならないように前節で命じています。パウロと共に立って証しを担うことから離れたのです。

1:16 オネシポロの家族を主があわれんでくださるように。彼はたびたび私を元気づけ、私が鎖につながれていることを恥と思わず、

1:17 ローマに着いたとき、熱心に私を捜して見つけ出してくれました。

 オネシポロの幸いは、パウロを元気づけたことです。パウロが鎖に繋がれていることを恥としませんでした。パウロの働きを熱心に支えたのです。

1:18 かの日には主が、ご自分のあわれみをオネシポロに示してくださいますように。エペソで彼がどれほど多くの奉仕をしてくれたかは、あなた自身が一番よく知っています。

 オネシポロの幸いを示すことでテモテを励ましたのです。彼には、主がかの日に契約を果たして豊かに報いてくださることを願いました。彼は、多くの奉仕をしました。そのような働きは、主が覚えておられて報いてくださるのです。

 このように祈ることで、テモテも御言葉を宣べ伝えることに対して、大きな報いがあることを覚えさせ、その努めを愛すべき良いこととして覚えて奉仕するように勧めたのです。

・「あわれみ」→契約に対する忠誠。契約を果たすこと。すなわち、行いに対して報いること。